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2012年9月 7日 (金)

負けて、勝つ 大柄渡辺謙 小柄吉田茂を演ず

Photo NHKは土曜日に吉田茂を中心にした戦後のGHQマッカーサーとの対決したその歴史をドラマにするらしい。その吉田茂に渡辺謙を起用する。また彼が使われるとは、日本の俳優は国際的に通用する人がいないのかと思ってしまう。
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03  吉田茂は身長1メートル55の小柄な男。生前、「世界の歴史を動かすのは小柄な男」と決まっていると嘯いていたらしい。たとえば、ナポレオン、この男も小柄であった。中国鄧小平は150センチ、わが国の吉田茂は155センチ、世界的医学者 野口英世は153センチ、作家の三島由紀夫、川端康成だって160センチなかった。

02  吉田茂は、身の丈のことは口にしていないが、「大男総身に知恵の回りかね」ということわざの時代、前にも書いたが「徴兵検査の甲種合格153センチ以上」の時代、だが奥方は背の高い人だった。

大磯から国会へ吉田茂が通う道路を「ワンマン道路」と称して、世間の人は恐れて、今の渡辺恒雄どころの話ではない。社会党のダレだったか、国会の質問中に、吉田茂にコップで水かけられ「バカヤロー!」といって、国会が解散になった。
 1953年2月28日の衆議院予算委員会で、吉田茂首相と右派社会党の西村栄一議員との質疑応答中、吉田が西村に対して「バカヤロー」と暴言を吐いたことがきっかけとなって衆議院が解散。
 映像資料で見ると、吉田は席に着きつつ非常に小さな声で「ばかやろう」とつぶやいたのをマイクが拾い、気づいた西村が聞き咎めたために騒ぎが大きくなったのが実態

 松浪健四郎は、民主党議員永田寿康にやじられコップの水を浴びせたが、吉田茂にも同様な逸話がある。
 しつこい新聞記者にコップの水をかけた吉田が、さる貴い人から「気持ちはわかります」と言われたそうだ。そこで吉田は、
「水をかけたいと思うだけなら、誰でも思います」と答え「大事なのは、(実際に)水をかけることでございます」 と切り替えしたそうだ。こういうウイットを効かせると、次の矢を放てる日本人はいない。
ウィットとエスプリに満ちた会話をした。

 吉田茂の有名なウイットというか毒舌が、某ブログにあったのでご紹介します。
①「特別の健康法とか、不老長寿の薬がありますか?」
とある人に聞かれ、すました顔で即答した。
「はい、強いてあげれば人を食っております」。

②外交上の会見の場で謝罪しなくても良いのに突然
“I am sorry” と言った。その場にいた一同は、なんだろう?と驚いていた。次の瞬間、「私は、総理です」と吉田さんの一言で、緊張したその場は、一瞬で和んだという。

③終戦直後のまだ国民が焼け野原で飢えと闘っているころ、吉田さ04 んはマッカーサーに「450万トンの食糧を緊急輸入しないと国民が餓死してしまう」と訴えた。結局6分の1以下の70万トンしか輸入できなかったが、餓死者は出なかった。マッカーサーが抗議して、
M氏:ミスター・ヨシダ、私は70万トンしか渡さなかったが、
餓死者は出なっかったではないか。日本の統計はいい加減で困る。
01 吉田:当然でしょう。若し日本の統計が正確だったら、むちゃな戦争などいたしません。
 また統計どおりだったら、日本の勝ち戦だったはずです。
 マッカーサーは腹を抱えて笑い出したという。

 たぶん、ここまで吉田茂の毒舌ユーモアやウイット、エスプリが広がると、彼ならこういうだろう、と付け加えられてしまい、彼の言わなかったことも追加されるだろう。まあ、それはそれで、面白いかもね。

吉田 茂(よしだ しげる、1878年(明治11年)9月22日 - 1967年(昭和42年)10月20日):日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。
内閣総理大臣(1946)昭和21年5月22日〜昭和22年5月24日、および、(1948)昭和23年10月15日〜1954(昭和29)年12月10日まで在任。

優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。
政治活動以外の公的活動としては、廃止された神宮皇學館大學の復興運動に取り組み、新制大学として新たに設置された皇學
館大学にて総長に就任した。また、二松学舎では、金子堅太郎の後任として学校法人の理事長にあたる舎長に就任した。

おいたち:1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士竹内綱の5男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区
)に生まれる。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されて 母親は芸者だったらしく、竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ
実父と義父は若い武士として1868(慶応四、明治元)年の明治維新をはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった。

1881年(明治14年)8月、茂3歳、旧福井藩士横浜貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)吉田健三の養子となる。
ジョン・ダワーによると、「竹内からもその家族からも、この五男茂は余計者に扱われていた」という。 養父・健三が40歳の若さで死去し、11歳の時、茂は莫大な遺産を相続した。

 少年期は、大磯町西小磯にて義母に厳しく育てられた。
200pxshigeru_yoshida  1889年(明治22年)2月、耕余義塾入学→1894年(明治27年)4月に卒業。同年9月から、日本中学(日本学園の前身)約1年通った、
1895年(明治28年)9月、高等商業学校(一橋大学の前身)同年11月に退校。1896年(明治29年)3月、正則尋常中学校(正則高等学校の前身)を卒業。同年、慶応義塾・東京物理学校(東京理科大学の前身)に入学いずれも中退。
1897年(明治30年)10月に学習院入学、1901年(明治34年)8月学習院高等学科を卒業
同年9月、当時華族子弟などを外交官養成の学習院大学科に入学、大学科閉鎖
1904年(明治37年)同年9月に東京帝国大学法科大学、1906年(明治39年)7月政治科を卒業、
同年9月、外交官領事官試験に合格。合格者11人中、首席合格が広田弘毅

 外務省へ入省後は、20年の多くを中国大陸で過ごす。中国における吉田は積極論者で、軍部よりも強硬であったとされる。奉天総領事時代には、対中強硬論者政友会森恪と連携し、「満蒙分離」論を支持。1928年、田中義一内閣の下で、森は外務政務次官、吉田は外務事務次官に就任。

 外交的には覇権国英米との関係を重視し、この頃第一次世界大戦の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していたドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父・牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた。駐英大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。また、日独防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。1939年昭和14年、待命大使となり外交の一線からは退いた。

 太平洋戦争開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、牧野伸顕、元首相近衛文麿ら重臣グループ連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦大敗を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、成功しなかった。
その後、殖田俊吉を近衛文麿に引き合わせ、後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。
 しかし書生として吉田邸に潜入したスパイ(=東輝次)によって1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束。ただし、同時に拘束された他の者は雑居房、吉田は独房で差し入れ自由という待遇(親交のあった阿南惟幾陸相の配慮によるもの)40日あまり後に不起訴・釈放となった。この戦時中の投獄が、逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得る。
Shigeru_yoshida_suit_2   スパイ(=東輝次)には
後日談がある。
 その書生が戦後現れて、「上官の命令とはいえ申し訳ないことをしました」と詫びると、「忠実に任務を遂行したのだから、別に謝る必要はない」と激励し、就職の世話までしている


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