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2016年8月28日 (日)

版画だといって送ってくれた。

Image1 版画だといって送ってくれた。ひと目見て、おお、すげえじゃんと思ったが、見慣れると、欠点も見える。
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 高校生になると、美大を目指す学生の作品はコノ程度ではないだろうから。

 一芸で食っていけるなんてのは、難しい。バレイをやったり、将棋をやったり、テニスをやったり、英会話をやったり、右脳訓練をやったりしても、最後高校生になるまでに、止めていく。

 才能が飛び切りでないと、それでは食えない。ピアノ、ヴァイオリンとかも、そうだ。何が欠けても、運、ヒキがないと。生き方上手でないと、だめかも。

 学力とか、知識ではダメになってしまうことが、恐ろしい。普通こそが一番大事。これを大事にして、押しのけないでもいい。押し上げられてこそ、本物だ。これが、戦前の日本の基本教養だった。あれは、仏教と儒教の裏打ちされた日本人の共通認識だった。それがアメリカの市場経済が洪水のように流れてきて、日本人の持ち前の教養が吹っ飛んだ。僅か残るのは、「ニッポン、がんばれ」の一辺倒の応援。
 危なっかしい。

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2016年8月27日 (土)

パーキンソン病 原因は何か.

パーキンソン病 とは、話には聞いたが、それはどんな病気かわからなかった。

原因は何か.
 原因は現在も不明です。脳の病理学的変化では、中脳の黒質こくしつドーパミン性神経細胞の変性が確認されています。ドーパミン性神経細胞の変性により、神経伝達物質であるドーパミンの産生が減少し、前述した特徴的な症状が現れます。
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 症状の現れ方.
片方の手の震え(安静時振戦しんせん)
歩行障害が多く、前かがみで小きざみに歩く。
筋のこわばり(歯車様固縮こしゅく)
手足の震えは当初は片側、進行すると反対側にも。
(すくみ足)1歩めが出にくくなり、
(小きざみ歩行)歩幅も小さくなります。
(動作緩慢)全体に動作が遅くなり、
方向転換や寝返りが苦手になる。
(突進現象)歩いている足が体に追いつかなくなる。
(姿勢反射障害)姿勢の反射も障害され、前のめり姿勢が直せずに転倒する。
 そのほか、
(仮面様顔貌)表情が乏しく、おでこや頬が脂っぽくなる。
(起立性低血圧)自律神経系では、便秘や立ちくらみが現れる。
 うつの精神症状もみられるが、知能は正常に保たれる。
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2016年8月25日 (木)

渋沢 栄一 「私利を追わず公益を図る」 道徳経済合一説

Shibusawa渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日):江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の実業家。
 
第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれる。理化学研究所の創設者でもある。
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天保11年(1840年)、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)に父・渋沢市郎右衛門元助、母・エイの長男として生まれた。Sawa幼名は栄二郎のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。渋沢成一郎は従兄。

Rmation 渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。
 市三郎も父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れた。14歳からは単身で藍葉の仕入れに出かけた。この時の経験が、ヨーロッパの経済システムを吸収しやすい素地を作り、現実的な合理主義思想につながったといわれる。

 パリ万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟・徳川昭武の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得て渡航。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行。各地で先進的な産業・軍備を実見すると共に、社会を見て感銘を受ける。ちなみにこの時に彼に語学を教えたのは、シーボルトの長男で通訳として同行していたアレクサンダーである。この後も、交友は続き、アレクサンダーは弟ハインリヒと共に後に、明治政府に勤めた渋沢に対して日本赤十字社設立など度々協力をする。

 なお フランス滞在中に、御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役に転じている。パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学するものの、大政奉還に伴い、慶応4年(1868年)5月には新政府から帰国を命じられ、9月4日(1868年10月19日)にマルセイユから帰国の途につき、同年11月3日(12月16日)に横浜港に帰国した。

 帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、静岡藩より出仕することを命ぜられるも慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」と言われ、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、明治2年(1869年)1月、静岡にて商法会所を設立する。
Ung
 大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省する。大蔵官僚として民部省改正掛(民部省と大蔵省統合)を率いて改革案の企画立案、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わる。
 しかし、予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、明治6年(1873年)に井上馨と共に退官した。
 明治8年(1875年)、商法講習所を設立する。退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。また、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。
 第一国立銀行ほか、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙(現王子製紙・日本製紙)、田園都市(現東京急行電鉄)、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績、大日本製糖、明治製糖など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。

 若い頃は頑迷なナショナリストだったが、「外人土地所有禁止法」(1912年)に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案、成功はしなかったが、これが現在の時事通信社と共同通信社の起源となった。

渋沢が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。

 「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めた。
渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「渋沢財閥」と呼ばれたこともあったが、これは死後の財産争いを防止するために便宜的に持株会社化したもので、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものだった。
他の財閥当主が軒並み男爵どまりなのに対し、渋沢一人は子爵を授かっているのも、そうした公共への奉仕が早くから評価されていたためである。

 実業界の中でも最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院初代理事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長などもした。

 日露戦争開戦の前年にあたる明治36年(1903年)、対印貿易の重要性を認識していた渋沢は、大隈重信らとともに日印協会の設立に携わり、第3代会長をつとめた。

関東大震災後の復興のためには、大震災善後会副会長となり寄付金集めなどに奔走した。

 当時は実学教育に関する意識が薄く、実業教育が行われていなかったが、渋沢は教育にも力を入れ森有礼と共に商法講習所(現一橋大学)、大倉喜八郎と大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力したほか、二松學舍(現二松學舍大学)の第3代舎長に就任した。学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)の設立・経営に携わり、井上馨に乞われ同志社大学(創立者・新島襄)への寄付金の取り纏めに関わった。また、男尊女卑の影響が残っていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わった。

 また日本国際児童親善会を設立し、アメリカの人形(青い目の人形)と日本人形(市松人形)を交換するなどして、交流を深めることに尽力している。1931年には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金を募るなどし、民間外交の先駆者としての側面もある。なお渋沢は1926年と1927年のノーベル平和賞の候補にもなっている。

 道徳経済合一説
 大正5年(1916年)に『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。 『論語と算盤』にはその理念が端的に次のように述べられている。
 富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。
 そして、道徳と離れた欺瞞、不道徳、権謀術数的な商才は、真の商才ではないと言っている。また、同書の次の言葉には、栄一の経営哲学のエッセンスが込められている。

A53ad5 事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。

 幕末に栄一と同じ観点から備中松山藩の藩政改革にあたった陽明学者・山田方谷の門人で、「義利合一論」(義=倫理・利=利益)を論じた三島中洲と知り合うと、両者は意気投合して栄一は三島と深く交わるようになる。栄一は、三島の死後に彼が創立した二松学舎の経営に深く関わることになる。
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2016年8月23日 (火)

つれづれデジカメ日記 気にしない気にしない。幸せなんだから

 毎回、ひそかにつれづれデジカメ日記 を見させて頂いている。
 きょうはサチさん元気か、気にしている。息子さんを亡くして、その後お連れ合いを亡くし、最近はお疲れ気味のサチさんが体調を崩したと書かれると、女性の中に割り込んで記入は遠慮しているが、「無理なさんな」と声を掛けたくなる。
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 先日のブログでは、施設の中で暮らしているHさんがパーマを掛けにきて、彼女がその施設で恋愛中だという話が書いてあった。その施設で、彼氏が出来るなんて素敵だと思うが、やきもち焼きの周りにイジワルされていると書いてあった。

 ちょっと引用させてもらうと
お互いに好意を持っている異性が施設内にいるのだが、周囲が意地悪で困ると言う。
『何で幸せになろうとしているのに協力してくれないのかしらねえ。』
サチ「正式に結婚しちゃったら? 外で一緒に暮らしてみるのもいいんじゃないの?」
『それがねえ。 お互いに子供たちが反対しているのよ。 遺産の問題もあるしねえ。』
『ヒソヒソ話とか、噂を広めるとかされてもねえ』
サチ「気にしない気にしない。事実幸せなんだからある程度はしょうがないと思うけど、、、」
 これはかなり難問だと感じた。Hさんには無論幸せになって頂きたいが、周囲の思惑も又判る様な気がしたからである
。”引用がご迷惑でしたら削除します。ご連絡ください。

 サチさん自体も、気になる相手はベルだけという平穏な生活から、そういうことにも興味をもったら、案外元気になるのではないかと思ったりする。

 今は、長寿の時代だから、関心コトが狭くなるのが一番よくない。加齢によって、徐々に外の世界に興味を失うから、注意したほうがいい。

他の人に声掛けたら、自分にも
「気にしない気にしない。幸せなんだから」と、声を掛けたらいい。

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2016年8月22日 (月)

時間銀行 自分の技能や労働を働いたら預金し、必要な労働を買う

『時間銀行』。日曜日のラジオで紹介を聞いて、コレが日本にあったら、ぜったい飢え死ぬことはない。セーフティネットにもなる。私が以前から「労働力で納税」してもいいと考えていた。そうしたら、滞納も減るし、税収も上る。平安時代の昔にあった「租庸調」の「庸」がそれに当る。
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 庸:正丁(21歳~60歳の男性)・次丁(61歳以上の男性)へ賦課された。京へ上って労役が課せられるとされていたが(歳役)、その代納物として京へ納入したものを庸といった。庸を米で納める場合は庸米(ようまい)、布で納める場合は庸布(ようふ)と称した

 今の市場経済では、大企業中心の経済でお金持ちは1%、99%は金で苦しんでいると言われている。町中を見ると、個人の商売が成り立たなくなって、本屋がつぶれ、たばこ雑貨屋は閉店、呉服屋が苦しそう。大型スーパーが席巻している。カネを持っていると、株に投資させようとして、庶民のもちがねを取り上げる算段する政府。

 年金の支給で庶民は飢えない程度のカネで、ヒヤヒヤの人生を強いられているのが現状だ。そこで、この諸悪の根源である市場経済に対抗するには、「雇用なしで生きる」方法を考えないと、人間は生きているこの世が一番の煉獄である。早く死にたいと叫ぶ人が多くなる。

200_「ルポ 雇用なしで生きる」
――スペイン発「もうひとつの生き方」への挑戦 
著者 : 工藤律子 ¥ 2,160 岩波書店 (2016年2月19日発売)
 レポートのせいか、中味の文章がパサパサで面白くない。もう少し味わいある豊な中味と具体性のある報告がほしい。

 この「時間銀行」の話を聞いたとき、ハタと膝を打った。市場経済の側からクレームがつくとは思わないが、邪魔されないか危惧がないわけではないが、まだ大丈夫だ。

時間銀行」は
 銀行に参加する人同士が時間を交換単位で「銀行」に参加するメンバー同士でサービスのやり取りをする仕組み。コレが基本。あらかじめ、じぶんの提供できるサービスを登録し、依頼されたサービスを提供すると、かけた時間分を「時間預金」できる。依頼者は同じ時間数を自分の預金口座から差し引かれる。

 例えば、Aさんが1時間Bさんのパソコンの修理をしたら、Aさんに1時間の預金ができ、その1時間分の預金で別のメンバーに1時間分マッサージを依頼できる。
 一時間のサービスを受けたBさんは、他のメンバーに依頼された引越しの手伝いを3時間すれば、差し引き2時間の預金ができる。そうやってメンバーが多方向に助け合うのが、時間銀行である

 葛飾区のなかでも、コレを実行したら、「すぐやる課」で取手だったかで有名になったが、あの式で、葛飾も有名になるぞ。区長に面接して、区の支援をもらえたら、おもしろい展開ができる。

 時間預金だけでなく、不要物交換のようなプラスαを加えて「時間銀行+プラスα」としたら、シニアクラブの事業として、盛り上がるような気がしてならない。この中で、時間銀行の事業として「自費出版」「自分史」事業が可能になる。

 どうやったら、「時間銀行+α」の実務が動き始めるか、区などに相談したい。そのために、まずサポーターになって人を知る必要がある。その中に入って参加しないことにはしょうがない。

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イタリアの場合
 イタリア各地にこの組織はあり、メンバー登録をして時間が空いている時間に他のメンバーのために家事の代行、植物や動物の世話、ベビーシッターなどの仕事をする代わりに、自分が働いた分の時間だけ他人に雑用を肩代わりしてもらうという仕組みだ。自分ができること、またはやってほしいことはオンライン上の掲示板を通じて情報を交換する(例えば「繕いものします」、「壊れた家電を直してください」等々)。“交換”は仕事内容や仕事をした人の社会的地位に関係なく、単純にその労働に費やした時間で計算される。

 ミラノの場合、公立幼稚園は延長保育でも18時まで。先生のストも多い。
 実は「BDT」が生まれたのは1980年代後半で、もともとは奉仕を交換することで人間同士が助け合うことを目的としたボランティア活動だったのだが、この不況を反映して、時間のないワーキングウーマンたちから一気に注目が集まっている。

 イタリアではベビーシッターや掃除人を利用することはごく一般的だが、実際のところ費用のほうはなかなか馬鹿にならない。そこで彼女たちは効率的なこのサービスに目をつけ、労働を交換することで金銭的な負担を増やすことなく、時間がないときのピンチを切り抜けるというわけだ。ゆえにメンバーの70%は女性で、キャリア世代が中心だとか。強くたくましく抜け目のないイタリア女性ならでは。ちなみにイタリアにも「Il tempo e’ denaro(時は金なり)」ということわざは存在する。

 国や企業に対する絶望から、多くの市民が従来型の雇用や上からの「支援」に依存するのをやめ、困難の中で相互に扶助して生きていく手法を模索するようになった。

 その中で、労働力を無償で提供しあう時間銀行や、ユーロの現金を介さない地域通貨、協同組合方式の働き方・暮らし方などが各地で工夫されていった。身近な問題を解決するために生まれたそうした運動がネットワーク化して、領域的にも多岐にわたる連帯経済のシステムができあがったことを著者は多様な事例を通じて見せてくれる。

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台風が明日朝関東地方に来る。

台風が明日朝関東地方に来る。B29dafa3s8月20日~21日には、日本列島周辺には、三個の台風、9号、10号、11号が漂っている。台風が数字では、味気ない。名前をつけたらいいのに。20日~21日深夜午前1時、急に雨風が強くなった。
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 雨、風が激しくなって、あるいは地震等の天災で、人間の活動が全部ストップしてしまうと、ほっとするような心境がおきないだろうか?アレって、人の死を予感させるからか。

 朝出勤してくるのは、困難な場合は、職場での泊り込みもいい。

日本の南海上を進んできた台風9号は、22日の昼ごろにも関東や東海に接近し、上陸する恐れがある。関東地方では、22日朝の通勤時間帯から雨や風が強くなる。気象庁は22日夕までの24時間雨量は、多いところで300ミリに達すると予想。川の増水や土砂災害に警戒を呼びかけている。

 22日午前0時現在、台風9号は伊豆諸島の八丈島の南南西約90キロにある。中心気圧は980ヘクトパスカルで、中心付近の最大風速は30メートル、最大瞬間風速は40メートル。1時間に35キロの速さで北上しており、23日未明には岩手県一関市付近に達する見通し。23日にかけて関東甲信、東海を中心に1時間に50ミリ以上の非常に激しい雨が降り、局地的に80ミリ以上の猛烈な雨になるという。

 一方、台風11号は21日午後11時過ぎ、北海道釧路市付近に上陸した。停滞する前線と台風から湿った空気が流れ込む影響で、北海道や東北を中心に大雨に。後続の台風9号が近づく恐れも出ている。

 さらに、西日本の南海上をゆっくり西へ進んでいる台風10号は、今後勢力を強めて沖縄諸島に近づく恐れがあるという。(小川崇)

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2016年8月20日 (土)

関東大乱 メモ資料 長尾景春の乱 (Wikipedia参考)享徳の乱

 長尾景春の乱は、文明8年(1476年)~文明12年(1480年)にかけて起こった関東管領上杉氏の有力家臣長尾景春による反乱。太田道灌の活躍によって鎮圧された。
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 永享の乱(永享11年:1439年)で室町幕府によって滅ぼされた鎌倉公方足利持氏の遺児成氏は鎌倉公方として迎えられたが、享徳3年(1454年)に父の遺恨から“関東管領上杉憲忠氏”を暗殺し、上杉氏との全面戦争を始めた。
 成氏は、上杉氏を支援する幕府軍の攻撃を受けて鎌倉を逃れ、下総古河城に拠って古河公方と称し、両上杉家(山内上杉家、扇谷上杉家)及び幕府から派遣された堀越公方足利政知(8代将軍足利義政の異母兄)との抗争に突入した(享徳の乱)。

 山内上杉家と扇谷上杉家は上杉氏の同族だが、関東管領職は山内家が継承しており、扇谷家はその分家的な存在で所領も山内家の家宰長尾氏の半分もなかった。
 古河公方との戦いで、扇谷家は山内家を支え、扇谷家の家宰太田資清(道真)と資長(道灌)父子の活躍によって、その力を増していた。太田父子は岩槻城を修築し、河越城、江戸城を築いて関東における拠点を確固たるものとした。

 享徳の乱は、20年続いた。両上杉家の主力は北武蔵の五十子陣に陣を敷いて古河公方と対峙していた(五十子の戦い)。
享徳の乱(文明7年~文明9年1月)★

 文明5年(1473年)、五十子陣で、主力の山内家の長尾景信(白井長尾家)が死去し、家督が子の景春となったが、家宰職(陪臣だが関東管領の補佐役)は、家督の景春の叔父長尾忠景に与えた。

長尾氏は白井長尾家、惣社長尾家、犬懸長尾家、鎌倉長尾家(後の足利長尾家)に別れ、持ち回りで家宰職を務めていた。しかし、本来は長尾氏の嫡流である鎌倉長尾家とそれに次ぐ犬懸長尾氏から輩出され、両家が当主の不在や幼少などで適任者を欠く場合に白井・惣社両長尾家の長老から選ばれる仕組みであったと考えられている。

だが、上杉憲忠殺害事件の時に鎌倉家当主長尾実景とその息子で犬懸家を継いでいた憲景がともに殺害された影響で、家宰職が景春の祖父景仲、景信と2代続けて白井家から出る事になった(景仲次男であり、景信の弟である忠景は対抗馬になり得ない)。この論理で行くと、次期家宰職の最有力者は足利長尾家(鎌倉長尾家が足利荘に移転した)の長尾景人であったが、景信の死の前年に若くして没し、後を継いだ息子の定景や犬懸家当主である景人の弟房清は家宰職を務めるには余りにも若かった。

 そのため、一族の長老となり、景仲よりも以前に家宰を務めていた養父の長尾忠政の没後に武蔵守護代など家中の要職を務めてきた忠景が家宰職になる事はこれまでの選出方法から考えれば不自然な人事ではなかった。その一方で2代続けて家宰職を出した白井家の力が強くなりすぎることを嫌った上杉顕定は家宰職を景春ではなく忠景に与えたという側面もあった。

 だが、景春はこの人事を深く恨んだ。
 景春は縁者(従兄弟)である太田道灌に同心を求めるが、道灌はこれを拒否して直ちに五十子陣にいた顕定と主君の扇谷家当主上杉定正のもとへ向かう。道灌は顕定と定正に景春を懐柔すべく、忠景が景春に武蔵守護代を譲るように進言するが景春が自分に次ぐ立場になる事を嫌った忠景は異例の両職兼任を行い、それならば忠景を一時的に退けるよう進言するも顕定はこれを受け入れず、ならば直ちに出兵して景春を討つよう進言するが、古河公方成氏と対峙している状況ではそれもできないと取り上げなかった。

 そして何よりも足利長尾家(長尾景人)亡き状況で、長尾一族の長老である忠景が家宰に就任するのは当然で、景春の主張は不当のものだという考えが、顕定・忠景だけでなく他の上杉氏重臣の間にも強く、忠景を一時退ける様に顕定に諫言した道灌は却って父の道真に叱責される有様であった(『太田道灌状』)。

 道灌が今川氏の内紛介入のために駿河に滞在していた文明8年(1476年)6月、景春は武蔵鉢形城に拠って反旗を翻す。顕定・忠景は未だ景春の力を軽視していたが、景春は優れた武勇の士であり、2代続けて家宰職を継いだ白井家の力は他の長尾氏一族よりも抜きん出ていた。五十子陣の上杉方の武将達は動揺し、勝手に帰国する者が続出する。

五十子の戦い(長尾景春の乱
 その後も古河軍と上杉軍は五十子で睨み合いと小競り合いを繰り返し、関東各地で一進一退の戦いを繰り広げていた。ところが、文明5年(1473年)関東管領家である山内上杉家の家宰長尾景信が死去し、続いて扇谷上杉家の上杉政真が五十子での攻防戦で古河軍によって討たれてから、にわかに状況が一変する。
 家宰を継げなかった景信の子・長尾景春は顕定を恨んで成氏方に寝返って挙兵する。

 翌文明9年(1477年)正月、景春は2500騎を率いて五十子陣を急襲し、顕定と定正は大敗を喫して敗走。18年に渡り、対古河公方戦の最大の防御拠点だった五十子陣は景春の僅かな兵によって落とされてしまった。顕定と定正は上野へ逃れる。

 長尾景春の挙兵に相模の小磯城(神奈川県大磯町)の越後五郎四郎、小沢城 (相模国)(神奈川県愛甲郡愛川町)の金子掃部助、溝呂木城(神奈川県厚木市)の溝呂木正重(景春の被官)、そして小机城(神奈川県横浜市)の矢野兵庫が呼応。その他多くの関東の国人、地侍が景春に味方し、侮りがたい勢力となった。
 これに南武蔵の名族豊島氏が同心する。鎌倉幕府の有力御家人だった豊島氏は室町時代に入って、その旧領を太田氏に奪われていた。石神井城と練馬城(東京都練馬区)に当主の豊島泰経、平塚城(東京都北区)にその弟の泰明が拠り、江戸城と河越城・岩槻城との連絡線を断ってしまった。

 文明9年3月、道灌は先手を打って兵を動かし、溝呂木城と小磯城を速攻で落とし、さらに小沢城を攻めるが、守りが堅く景春が援兵を送ったため一旦兵を引いた。小机城の矢野兵庫が出陣して河越城攻撃を図るが、太田資忠(道灌の甥)と上田上野介がこれを撃退した。

 道灌は江戸城の指呼に勢力を張る豊島氏を早期に潰さねばならず、同年4月、上杉朝昌、三浦高救らの援軍を得た道灌は軽兵を発して平塚城城下を焼き払い、寡兵と侮って城を出て追撃してきた泰経・泰明を待ち伏せ、僅か50騎で200騎の豊島勢を打ち破り、泰明を討ち取った(江古田・沼袋原の戦い)。
 道灌は敗走した泰経を追って石神井城を囲む。泰経は降服を申し出るが、城破却の条件が実行されなかったため、道灌は城を攻め落とし、泰経は没落した。

 同年4月、景春は五十子を出陣して利根川を渡り、顕定と定正の軍を鉢谷原で攻めるが撃退される。5月、道灌は顕定・定正と合流して五十子を奪回。用土原の戦いで景春を撃破。鉢形城を囲むが、成氏が8000騎を率いて出陣したため撤兵を余儀なくされた。

 道灌は、景春の本拠である上野へ侵攻。塩売原で1カ月間対陣するが決着がつかず、同年11月に双方撤兵した。翌文明10年(1478年)正月、成氏が簗田持助を通じて山内上杉家家宰長尾忠景へ和議を打診してきた。期待した景春の反乱が道灌の活躍によって短期間で逼塞せしめられたためであり、20年以上の戦いに飽いた成氏は幕府との有利な条件での和睦を望んでいた。

 この和議の動きを妨害するように、同年正月に泰経が平塚城で再挙するが、道灌は直ちにこれを陥れ、泰経は敗走して小机城に逃れる。3月、景春が河越城へ攻め寄せるが定正と道真がこれを撃退した。

 道灌は扇谷家の本拠地相模の景春方を制圧すべく、3月に前年に攻略に失敗した小沢城を攻め落とし、4月に小机城を攻略した。城に匿われていた泰経は行方知れずとなり、名族豊島氏は歴史上から姿を消す。続いて道灌は相模の景春方の諸城を駆逐。7月に景春の拠る鉢形城を攻略し、顕定の居城とした。

 武蔵と相模を固めた道灌は、12月に和議に反対する成氏の有力武将千葉孝胤を境根原合戦で打ち破った。翌文明11年(1479年)に甥の資忠と千葉自胤(千葉氏の上杉方)を房総半島へ派遣し、千葉孝胤の籠る臼井城(千葉県佐倉市)を攻略させた。この戦いで資忠は戦死するが真里谷武田氏、海上氏を降し房総半島から反対勢力を一掃することに成功した。

 成氏との和睦交渉が続けられる中、景春はなおも北武蔵秩父郡、児玉郡で抵抗を続けた。文明12年(1480年)6月、最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を道灌に攻め落とされ、景春は成氏を頼って落ち延びた。その後、景春は顕定の養子である上杉憲房の切り離しに成功して山内上杉家当主に擁立し、自らが家宰に就任して再起を図る[5]。

 文明14年11月27日(1483年1月6日)、成氏と両上杉家との間で「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議が成立。成氏は幕府から赦免された。また、憲房も顕定の下に戻り、景春は成氏の下で再起を期することになる。
 景春の没落によって30年におよんだ関東の争乱は治まった。

 だが、この和睦は山内家と越後上杉家が主導したものであり、扇谷家の当主定正は不満であった。道灌も「太田道灌状」で自分や戦った武士達に十分な恩賞がないと不満を漏らしている。この戦いで活躍した道灌の威望は大いに上がったが、それは主君である顕定・定正にとっては危険なことでもあった。
 文明18年(1486年)7月、道灌は糟屋舘(神奈川県伊勢原市)で主君定正によって謀殺された。死に際に「当方滅亡」と言い残したという。(こんなアホばかりでは、ウチは滅びる、という意味)

 長享の乱
 長享元年(1487年)、山内家と扇谷家は決裂し、両上杉家の抗争に突入する。没落していた長尾景春は扇谷家に味方して再び山内家と戦うことになる。
 その争乱の最中の明応2年(1493年)、伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆へ乱入して堀越公方を滅ぼし、さらに相模へ進出。やがて両上杉家は後北条氏によって滅ぼされることになる。
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2016年8月18日 (木)

漆にはどんな力があるのでしょうか?

漆は、人類の歴史と共に発見されたほど古い。古い建物や仏像や文化財に漆が塗られているのも、長持ちさせるための、昔の人々の知恵だったということができる。
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1.一つは、抗菌力です。漆はとてもバイ菌に強いため、 漆を塗った器にはバイ菌がつきにくくなります。それで、食べ物を入れたり、直接、口に付けても安心なのです。

2.また、防腐力(ぼうふりょく)があります。
漆が水や湿気をはね返してくれるため、土台になっている木が腐るのを防いでくれます。
だから私たちが普段使う漆器も長持ちするので、環境にもたいへん優しいのです。

古い建物や仏像や文化財に漆が塗られているのも、長持ちさせるための、昔の人々の知恵だったということができます

漆の木から漆液を取ることを「漆掻き(うるしかき)」といいます。
10年以上育った木から「漆掻き」をします。
 5月の終わりか6月の初めに、木に傷を付け始め、4日に1回のペースで、9月末ごろまで、独特の傷を徐々に増やしていきます。出来るだけ木を傷めずに、多くの漆液を取るために、一定の寸法をきめて傷を付けます。
 「カンナ」と呼ばれる特殊な道具で、漆液を採取する溝を付け、そこに分泌してくる漆液を「ヘラ」という道具で掻き取り、それを「筒」という容器に集めます。
 漆液を取る時期によって、水分やウルシオールという成分の量が違い、初漆(はつうるし)、盛漆(さかりうるし)、遅漆(おそうるし)、裏目漆(うらめうるし)などと区分しますが、最も良質で量が多いのは、7月中旬~8月末までの暑い時の40日間です。
 太い木ほどたくさん取れますが、木の大きさや、その人の技術、その年の天候などによって違います。普通、1本の木から牛乳ビン1本程度しか取れない貴重なものです。
 木は10月以降になると根元から切り倒されてしまいますが、取れた漆液は塗料として使われ、漆器になって生まれ変わり半永久的に生き続けていきます。

漆掻奉行(うるしかきぶぎょう)という奉行がおかれ、他の領地に持って行くことは禁止され、 献上品として使われるようになりました。
献上品としてつくられる漆器には金が塗られたり、高級なデザインになっているものもあります。

  漆の木から漆液を取ることを「漆掻き(うるしかき)」といいます。
10年以上育った木から「漆掻き」をします。
 5月の終わりか6月の初めに、木に傷を付け始め、4日に1回のペースで、9月末ごろまで、独特の傷を徐々に増やしていきます。出来るだけ木を傷めずに、多くの漆液を取るために、一定の寸法をきめて傷を付けます。
 「カンナ」と呼ばれる特殊な道具で、漆液を採取する溝を付け、そこに分泌してくる漆液を「ヘラ」という道具で掻き取り、それを「筒」という容器に集めます。
 漆液を取る時期によって、水分やウルシオールという成分の量が違い、初漆(はつうるし)、盛漆(さかりうるし)、遅漆(おそうるし)、裏目漆(うらめうるし)などと区分しますが、最も良質で量が多いのは、7月中旬~8月末までの暑い時の40日間です。
 太い木ほどたくさん取れますが、木の大きさや、その人の技術、その年の天候などによって違います。普通、1本の木から牛乳ビン1本程度しか取れない貴重なものです。
 木は10月以降になると根元から切り倒されてしまいますが、取れた漆液は塗料として使われ、漆器になって生まれ変わり半永久的に生き続けていきます。

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«マスコミは、オリンピックにこんなに熱入れて、大丈夫だろうか?